専門職としての責任 / 上村 修一

巻頭言

上村 修一(個人会員)

高校生など多数の命が失われた韓国のフェリー沈没事故は痛ましかった。乗客を置き去りにした船長は論外にしても、船が日常的に規定の3倍以上の積み荷で運航されていたのには驚いた。当初は過剰な積載を指示する会社に対し現場では抵抗したようである。
しかし、なんとか「やればできる」ことから若干の超過が徐々に増え、結局2倍、3倍になったに違いない。現場の運航は冷や汗の連続であったろうが、慣れるにしたがい危険に対して鈍感になり、常識が通用しなくなっていたのではなかろうか。

このことは残念だが調査の有効(回答)率を思い起こさざるを得ない。昭和30年代に90%台もあった有効率は漸減し、今や50%台も危うくなってきている。むろん、その対応には関係者全体で努力してきたものの展望は開けない。むしろ有効率は低くても「やればできる」ことから危険性に鈍感になっているようにも思える。
過積載は規定で判断できるが、有効率は専門家でも評価は難しい。一般人にとって調査結果は100%正しいとみなされているにちがいない。乗客の安全に責任をもつ船長と同様、信頼できる結果を示す専門家としての調査者の責任を再度、確認したい。

ところで、近年の情報技術の急激な発展により、様々な調査機器、調査手法が試みられている。それは有効率の低下もあって「安く」「速い」新たな調査への模索といえよう。
気になるのは、概して情報技術主導であり調査専門家の影が薄いように思えることである。調査相手は生身の人間であり、けっして回答機械ではない。意識の的確なデータ収集ができるのは知識と経験を持つ調査専門家であり情報技術者ではない。この面でも調査専門家がより介入する責任があると思える。

「安さ」「速さ」への会社および社会の要請は大きい。調査専門家は組織の中で働く以上、組織の意向や指示には従わなければならない。
もちろん専門的知識や技術が求められるのだが、(過積載のように)「要請」が専門性と衝突する場合もあるかもしれない。その時は組織人である調査専門家としては正念場に立つことになる。どのような対応になるかは場合によろうが、データの信頼度によっては、社会的批判を浴び調査組織が破綻することがあることは十分承知しなければならない。

社会の様々な分野で専門職は増加し、専門性も高度化している。福島原発事故やSTAP論文問題でも感じられるが、専門職の社会に対する責任と自覚がこれまで以上に必要となっている。


この巻頭言は「よろん」114号に掲載されました。

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