「世論調査」の可能性と限界の認識が求められる時では? / 谷藤 悦史

巻頭言

谷藤 悦史(早稲田大学)

2012年は、フランスやアメリカなど、世界的に選挙が行われた年であったが、首相の「決断」やらで、わが国もそれに加わった。わが国では、2013年にも東京都議会選挙、参議院通常選挙など大きな選挙が予定され、選挙年が続く。選挙年であることは、世論調査年でもある。

「世論調査」に接しながら、いつもある種の心地悪さを感じてしまう。内閣や政党の支持率や支持理由、投票意向政党などを明らかにする「世論調査」が、選挙民の特性を解明する調査技法であることは論をまたない。
可能な限り正確に測定し記述していることも否定しない。しかし、広く行われている「世論調査」は「調査」と称しているが、「調査」とはほど遠い。

 「調査」が前提とする仮説を立てて検証することはない。包括的な科学的手続きと技法を確立することも少ない。意見形成のメカニズム、意見と意見との関係や因果連鎖、意見と行動の関係を明らかにするもまれである。
なされるのは、特定の時点で人々に質問紙を投げかけ、人々の意見を数え上げ、その状況を記述することである。多くの国で「調査」と選挙の「世論調査」を区別して、前者をsurvey、後者をpollとするのも、そうした理由からである。
pollは、質問紙を使って個々人の意見を取り、それを数え集約したもので、必ずしも「調査」ではないからである。世論は、多様な様相をもって表現される。
ある場合は選挙で、時には市場動向や消費行動で、デモや暴動や革命でも表現される。「世論調査」と称されるpollも、多様な世論の一面を切り取ったものに過ぎない。

その「世論調査」が、影響力を増している。私の心地悪さはそこにある。「世論調査」が選挙を正確に予測すると、その価値が高まり、それが世論そのものである印象が作られてしまう。
世論をさまざまに表現する他の手段に目が向けられなくなる。世論の主要な指標である選挙も、価値が相対化される。「世論調査」の政治的利用も高まり、それによって候補者選考や政策開発がなされる。政治が「世論調査」で一元的に構築されてしまう。「世論調査」に追随するポピュリズムの政治でもある。政治の世界から、多様な顔を持った世論を汲み取る力、世論を方向づけ指導する能力が失われ、政治の劣化が進行する。

 「世論調査」は世論そのものではなく、人々の意見分布の簡易な記述に過ぎないという認識、「世論調査」を絶対視しない冷静な視点を、施政者も選挙民も共有すべきではないのか。
「世論調査」リタラシーの涵養である。「世論調査」を担う者には、surveyとpollを明確に区別し、pollに対応する適切な用語を開発することが望まれる。先人の多くが、正確で科学的な「世論調査」を求めて努力を重ねてきたことは否定しない。今後も貫くべきである。しかし、それを絶対視せずに、限界を冷静に認識する謙虚な姿勢をもつことも必要ではないかと思うのである。


この巻頭言は「よろん」111号に掲載されました。

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