世論調査は従僕ではない / 峰久 和哲

巻頭言

峰久 和哲(個人会員)

A新聞とB新聞の調査結果はどうしてこんなに違うのか。

そんなことは、ずっと前から問題になっていた。
各社は折に触れて検証記事を書いた。違いの原因はおおむね「質問文の言い回し」「選択肢の作り方」「調査方法」といったところに落ち着き、互いに傷つけ合うこともなかった。

ここ1、2年のことだが、様相が変化している。集団的自衛権の行使に関する調査の選択肢は「二択」か「三択」のいずれが妥当かをめぐって議論が起き、記事に取り上げた社もあった。
他社の調査結果報道を署名記事で批判し合ったり、社外筆者のコラムが他社の質問文に異論を唱えたりするケースもあった。

馴れ合うことなく、互いに目を光らせるのは結構なことなのだが、気がかりなことがある。
それは、批判合戦の背景に「社論」が見え隠れすることである。ほとんど例外なく、社論に寄り添った調査結果報道や質問文、選択肢が批判の矢面に立たされている。

社論の是非は問うまい。だが、報道機関の世論調査が社論の都合の良いように作られていると世間から見なされるなら、私たち世論調査者の名誉にかかわる重大事である。

報道機関の世論調査部門に必須なのは、専門性と独立性である。
まず専門性。いまさら強調するのは気恥ずかしいが、統計学の基本と質問作りの作法を身につけている者が一人もいないような報道機関が、手軽にできるRDDを使って世論調査をするようなことは、さながら幼児にピストルを持たせるほどに危険なことである。

次に独立性。社内に有能な専門家集団を抱えていながら、編集局(報道局)や論説委員室など「社論形成者」の圧力に耐えかねて、不本意ながら社論に寄り添う調査をしてしまうこともあると聞く。
世論調査部門が独立性を保障されていないような報道機関では、世論調査は社論の従僕になってしまうのではないか。

社論形成者たちの言うことを全く聞かずに勝手に調査するのは不可能だろう。
徹底的に議論をして、世論調査部門としての筋を通すべきである。でなければ、プロフェッショナルとしての使命を放棄したのも同然である。

質問文の言い回し、選択肢の設け方、質問の順番、それらを巧みに操作すれば、調査対象者を誘導し、世論を捏造することは容易である。私たちは、そのことを知っている。

ピストルは、しっかり訓練を積んだ大人が取り扱うべきである。そのことをわきまえなければ、先人が築き上げた日本の世論調査の歴史に大きな汚点を残すことになる。


この巻頭言は「よろん」117号に掲載されました。

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