巻頭言
興津 正熙(個人会員)
個人情報保護という言葉が日本社会にさまざまな波紋を投げかけている。
これまであった名簿がなくなって不便と感じてている企業や団体が多いことは周知の通り。
大学別卒業生名簿の廃止で「就活」のOB訪問ができず途惑う学生がいれば、学生への呼びかけも難しくなったと嘆く大学もある。
自治体がらみでは、お年寄りへ見舞い状を送るために必要な高齢者名簿がもらえず行事に支障を来たした例も報道されている。
いずれも個人情報保護とは知らせないこと、だから名簿は作らない名簿があっても出さないといった誤解がもたらしたものといえよう。
こういう混乱を助長しているのが官の対応である。
国、自治体などの内輪の情報隠しは枚挙に遑ないが、警察の放置バイク取り締まりの’ナンバー照会を拒否した自治体もあると聞けば、この国の個人情報管理がどうなっているのか首をひねらざるをえない。
個人情報保護法の目的はつまるところ人権保護であるはずで、知らせないことも保護なら時には知らせることが保護となる場合もある。現に警察の照会に応じている自治体もあるのだ。
国、自治体間の整合性をはかるべきだ。
しかし個人情報保護とは知らせないと同義語とみている人が多いのは事実、混乱はすぐには収まらないかもしれない。
肝腎の個人だが、迷惑電話などの学習から電話では名乗らない人が増えている。
たとえ不便をかこつ事態に立ち至っても、名前は隠すもの、情報は知らせないという観念は現在の風潮といえる。
問題はこのような流れが世論調査に及ぼす影響である。
総務省は国勢調査の方法を直接訪問から郵送に切り換えようと検討している。
国勢調査の未提出率が急上昇しているからだ。未提出はオートロックマンションに多いというから、都心のマンション人口増はそれに拍車をかけることになろう。
国の調査でさえ拒否する時代である。世論調査は特別といっても実施主体が民間である以上、拒否率は国勢調査より高くなるとみるべきで、調査環境はさらに厳しいものとなろう。
如何に対応するか。二つの立場がある。
第一に原票が持つ実名性の確保である。
ともと市場調査にしても世論調査にしても、結果は統計表示、個人の名前はでてこない。
つまり匿名である。しかしその基礎となる原票は実名でなくてはならない。
回答者本人を特定できてこそ調査の正当性を主張できるのであるから当然である。従って実名性の維持については、相当の負担を覚悟の上でひたすら努力することが求められよう。
本協会と密接な関係にある日本マーケティング協会であるが、市場調査としては住民基本台帳の閲覧もできなくなるので、住宅地図をベースにした新しい市場調査手法を研究している。
具体的には、地図で世帯を特定、その上で個人を選び協力を得るという運びになるが、昨年夏行なった実証調査の回収率は17%と予想をはるかに下回る低いもの。知らせないムードのなか協力を得ることの厳しさが浮き彫りになった。
労多くして功少なしと言った形だが回答者の特定は調査の原点、調査精度をいかに維持するか、今後とも地道な努力を続けることが大切である。
第二にはこれまでのような調査ができなくなったことを認めた上での前向きな対応である。
調査精度維持のための研究は代替手法の開発につながる重要なものだ。が、将来への夢がない。そこでひとつ実現確率、達成時期の議論はさておいて、将来を語ることのできる「ゆめ」を述べてみたい。
厳しい調査環境とは、データは頼りなく母集団特定が難しくなっていること、局面はマイナスだ。それを補完しようとするのは当然の発想、一歩踏み込んで、マイナスをプラスに転化しようというのはすなわち「ゆめ」だ。あやふやな原票であっても、いやむしろあやふやな原票だから母集団推定が可能とする理論があれば、それは「ゆめの理論」といえよう。それを本協会の研究対象とする事を提案としたい。
そんな理論があるかと聞かれたら知らないとしか答えられない。しかし育てようによっては開花の可能性がある理論はある。
一つ目はこれまで異端の確率論といわれていたベイズの理論である。知らないうちに起きていたことを推定するため、ある仮定のもとに証拠を集めることをくりかえし事実に迫るものであるが、近年アメリカで注目されているという。
二つ目は経営学における条件理論である。
いろんな原則、条件を盛り込むという要素還元方式とは相反する理論であるが主流の経営学とはいいがたい。この両者に「ゆめの芽」があるのである。
双方に共通するのは統計数理に頼らず、経験と勘という極めて人間くさい思考というのが特徴である。
それだけ発想の自由度が高い「ゆめ」向きともいえる。
とくに主観的な仮定から出発し、事実を明らかにしていこうとするベイズの理論は期待が持てる、と思う。
とはいっても雲を掴むような「ゆめ」の話し。
無から有を生むに近いが、ビッグバン理論はわれわれの宇宙が無から生じたことを論証している。ベイズの理論と条件理論の研究から世論調査のビッグバン理論が生まれるかも知れない。
その可能性を信じ研究に取り組んでほしいと願っている。
よろん99号は二桁ナンバーの最後、次号は三桁ナンバーという新しい半世紀を象徴する会報となる。
新しい皮袋にはそれに相応しい酒が用意されるだろう。古い皮袋に入っている古い酒の最後の役割は、前向きという芳醇な香りを次代へのメッセージとしてとりつぐこと。それが提案の本意である。
この巻頭言は「よろん」99号に掲載されました。